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1. オフィスコンピュータ(1974/8〜1984/5)


前章で説明したとおり、1974年から1977年頃にかけて、富士通と内田洋行から3系列のオフコンが次々と発表、販売されていきます。

1.1 FACOM V0(ブイゼロ)

コード名V02の超小型コンピュータは、富士通初の本格的なオフコン、FACOM V0として1974年8月に発表されました。LSI、ICを使用、ファームウェアをベースとしたVS(仮想記憶)方式を採用、記憶容量も20〜48Kバイトと(当時としては)大容量であり、OSもリアルタイム、バッチ両方の処理に対応した上に、従来のFACOM230-10のソフトウェアも動作するようにエミュレータも搭載、と数々の新機能を盛り込んでいました。アプリケーションパッケージとしてCAPSEL、簡易言語TASKFORCEなども準備されていました。

このように新機能を満載した新コンピュータに対する期待は大きく、翌年2月の出荷までに大量の受注を受けました。ところが出荷直後にユーザ先でまともに動かないというトラブルが続発し、しばらく出荷延期となるというアクシデントもありました。

このような困難にあいながらも、1975年12月にFACOM V0の下位モデルとしてFACOM V0Sを発表しファミリ化を行いました。そして1977年1月には改良型であるFACOM V0IIIを発表しました。また同時に、FACOM V0Sの後継モデルであるFACOM V0SIIIも発表されました。

1.2 FACOM Bm

コード名V01の超小型コンピュータは、FACOM Bmとして1975年12月に発表されました。FACOM Bmは、同時にユーザックよりUSAC820という名前で発表されました。FACOM Bmは後にFACOM BmモデルP、モデルD、モデルW、モデルD2、モデルKとマイナーチェンジ/ファミリ化しています。ところが富士通の得意とする分野ではなかったため、FACOM Bmシリーズは発表から2年経過してもわずか90台しか出荷されませんでした。一方ユーザック/内田洋行のUSAC820は、同じ期間で900台以上出荷しています。

1.3 FACOM V

唯一順調だったのが、コード名V04の小型コンピュータ、FACOM Vでした。FACOM230-15の後継機として、1977年1月に発表されました。

1.4 ニューV0

富士通イコール大型コンピュータというイメージからか、これらのオフコンは当初予定していたより売れず、とうてい満足できる結果ではありませんでした。オフコン出荷台数、金額ともに他のオフコンメーカーと比べるとまだまだ低く、当時の御三家どころか内田洋行にも遠く及ばず、富士通は下位でひしめくオフコンメーカーの1つにすぎませんでした。

また、Bm、V0、Vという三つの非互換な製品系列となっており、販売にもソフトウェア開発にとっても不便この上ない状況でした。これら三つの系列を統合し、富士通の当時の汎用機Mシリーズの下方モデルとして展開を図っていくことが急務でした。

そこでニューV0を目指して、FACOM Bmの後継をユーザックが中心となって開発、FACOM Vの後継を富士通が中心となって開発することになりました。

1.5 V800シリーズとシステム80

1979年4月、ニューV0としてFACOM V830システム80が発表されました。下位機のシステム80と上位機のV800シリーズは共通のマイクロプロセッサFSSPを使用することによって、オフコンと小型コンピュータの互換性を持たせることに成功しています。また、ディスプレイ画面も1920文字表示できるようになり、日本語も使用できるようになりました。V800シリーズ用の多目的プリンタも同時に発売されました。また、データベースなども用意されていました。

システム80は1980年5月にモデル5とモデル7に分かれた後、1981年10月のモデル3、1982年5月のモデル4,6,8の発表を経て、1982年12月にはFACOM K-10の原型といえるシステム80モデル1を最下位とする多くの機種からなる製品ラインが形成されました。また、HOPE80をはじめとする専用機にもシステム80は使用されました。

一方V800シリーズは、1979年4月にV830が発表された後、1980年5月にその上位モデルのV850、1982年7月にさらに上位のV870とV830の後継のV830STREAMが発表され、1000〜4000万円台の小型コンピュータ分野としてファミリー化されました。
V800シリーズの特徴的な点として、多機能印刷装置(VIP)、多機能情報読取装置(VIR)などいくつかの周辺装置を複合化した各種”多機能”装置の存在が上げられます。各装置にマイクロプロセッサを内蔵し、コンピュータ本体の負荷を軽減させることができました。
また、これらの装置で入出力するデータを操作するために、当時最先端の技術であったリレーショナルデータベースシステムRDMが用意されていました。
FACOM V830から漢字対応が謳われていましたが、この時は若干変則的なもので、1982年末に本格的に漢字対応されたOS、UNIOS/F5が登場しました。これにより入力から出力まで全て漢字を使用することができるようになりました。
これらFACOM V(800)シリーズのデータ入力、操作加工し出力する機能を言い表すため、富士通は「4Dの思想」という言葉を用いていました。

FACOM VとV800シリーズは、最盛期には稼動台数五千台以上を誇りました。特に1979年にNECが投入した小型汎用コンピュータACOS250とは激しい戦いを繰り広げました。




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いちばん最初のOS、UNIOS/F1は仮想記憶(ページング方式)、ダイナミック・マイクロプログラムをサポートしていましたが、シングル・ジョブ用でした。当時搭載していた外部記憶装置(磁気ドラム、磁気ディスク)のスピードが遅いため、ジョブの切り替えに時間がかかりすぎるという判断からマルチ・ジョブは採用していませんでした。
その他の新機能として、16桁の表示管にキーボードに打った内容が即座に表示される。
ソースプログラムを中間言語(コンプレス命令)に変換し、インタープリタ(マイクロプログラム)で実行される仕組みになっており、COBOL用、FORTRAN用と言語毎にコンプレス命令とインタープリタがあった。
FACOM230-10の後継機という位置付けから、FACOM230-10エミュレータも搭載していた。
アプリケーションパッケージとはいえ、最初は経理と給与計算のソフトしかありませんでした。
1975年1月末の段階で、約300台の受注がありました。(今と比べてはいけません。それにまだ発表だけしかされていない段階で、当時の値段で1台1000万円以上もするコンピュータが300台なら大量受注です。)
数々の新機能を搭載したため、少々のバグがあるのも仕方がないというところ。IBMでも1978年のシステム/38ではソフトウェアのトラブルで出荷が1年以上も遅れています。
NECでもITOS出荷時に、各所でまともに動かないという問題、通称”ITOS事件”を起こしています。でも、出荷延期をせずになんとか処理しました。ある本には、V0出荷時は、ちょうど富士通が汎用コンピュータを自社独自仕様からIBM互換仕様に方針変更を行ったため、汎用コンピュータの方に人員が割かれてしまいトラブルに対応できる人数が少なかった、それに対して”ITOS事件”は、NECの汎用コンピュータ開発計画がちょうど終了したところで、有能な人材を大量に投入することができた、という違いがあったためと書いてありました。
この時のウリの機能の1つは、240文字表示のディスプレイ搭載でしたが、NECを始め他社は既にディスプレイ搭載のオフコンを発表/販売済みです。それに他社はだいたい1920文字表示のディスプレイを既に載せていました。
当時の富士通の営業は「1900文字も表示しても仕方がない。そんなにたくさん表示すると混乱するし、どこに入力してよいかわからない。伝票入力なら240文字ぐらいがちょうど良い。」と言ってごまかしていたという笑い話があります。(当時のオフコンはどこもそんな状況。)
当然、後に1920文字表示することができるように改良されます。
OS名はBMOS。ワークステーションは付かないスタンドアロンタイプ。パッケージソフトとしてCAPSEL、プログラム言語はCOBOLと簡易言語BOL-1があった。
BmKは、変則的に漢字対応したモデルで、システム80がファミリ化完了するまでのつなぎとして用意されたモデルであると一般的には考えられているようです。Bmシリーズは、システム80が登場した後も、1980年頃まで販売され、最終的には1500台ぐらいは売れたというデータもあります。特に富士通の強力なバックアップによりBm専門販社が誕生し、エルムや都築ビジネスマシンズ(どちらも当時の社名)のようなこれら専門販社のがんばりで、後半になって(旧型化したにもかかわらず)販売台数が延びたようです。
OSはUNIOS/F4(後に漢字処理を強化したUNIOS/F5)で、最大4多重処理が可能、データベース(ネットワーク型のデータベース管理システム「DBM」)を実現するために、40メガバイトの磁気ディスク装置を8台まで接続可能でした。(発売当時のスペック)
オフコンが巨大化/大規模化した1990年代前半を知っている今では、FACOM Vクラスは十分オフコンクラスと言えますが、当初はオフコンにしては大きすぎると思われたため、当時の分類は小型コンピュータ(汎用小型コンピュータ)の扱いでした。ここでは後の流れを説明する上でFACOM Vをオフコンの範疇に入れています。
3シリーズの中で一番大型のFACOM Vは順調に売上を伸ばしていたようですが、他の2シリーズが当初予定していた出荷台数より悪かったようです。高機能ゆえに富士通が過大な期待を寄せすぎたのか。
実際、1977年1月に発売されたFACOM V0III、V0SIII、Vの3機種合わせて、発売後わずか2ヶ月で530台受注するなどそれほど悪くはないように思えるのですが・・・。
(追加情報)富士通は、オフコン発表時に4年間で1万3200台(一説には1万2800台)の販売目標を立てたが、実際は4年半で4050台の累計受注ということらしい。(当時オフコンシェア1位の三菱でさえ、1年の販売目標が2000台前後なので、目標を大きく取りすぎ。)また、V0は、バグが深刻で販売中止のまま、V0S発売まで売ることができなかったらしいので、スタートダッシュも失敗したということらしいです。
この当時の状況は、上位に御三家(三菱、NEC、(少し下がってしまった)東芝)、その下方に富士通を含むその他たくさんのオフコンメーカー群という3グループ構成。汎用コンピュータでは1位の富士通も、オフコンでは苦戦しています。
あまりに売れないので、販売から撤退するディーラや他社にのりかえるディーラも出ていました。
非互換であるということは、例えばある1つパッケージソフトを用意するために3機種用にそれぞれ作らなければならない、周辺装置の共通化が難しい、などの問題点が挙げられます。しかし、それよりも重要な点として、あるユーザが既存コンピュータをリプレースする時に、業務規模拡大によってより大きい機種が必要となった場合、上位の機種用にソフトウェアを作りなおさなければならないということです。リプレース作業がそれだけ大規模になってしまう以外に、作り直すなら他社のオフコンも検討に入れよう、という話になり、他社にリプレースされてしまう危険も増えてしまいます。
V830(V800シリーズ)はFACOM V、システム80はFACOM Bmの後継機。ニューV0と言いながら、V0の後継機はない。V0シリーズとシステム80、V800シリーズは、性能的にも製品系列的にも全くリンクしていません。つまり、V、V0、Bmの3つのシリーズのうち、V0シリーズだけが終了となったわけです。ただし名目上はV0シリーズはVシリーズと統合されたということになっています。
OSはUNIOS/F4(UNIOS/F5)。使用言語はCOBOL、FORTRAN、RPGなど。
FACOM Vと同じVシリーズなのですが、ここでは新Vシリーズということで従来のFACOM Vと区別したいので、V830以降のVシリーズを特別にV800シリーズと記述します。

2つに分かれていた小型コンピュータ系列のうち、FACOM V0系をFACOM Vに吸収する形となっています

1979年から1982年にかけて発表されたV830,V850,V870の一連のシリーズは、IBMのシステム/38とほぼ同クラス、同性能、同価格帯のシステム/38対抗モデルでもあります。システム/38の第一世代モデルもおおよそ1978年から1982年にかけて次々発表・発売されています。この第一世代のシステム/38は優れた先進性と良好な性能という特徴があったものの、ソフトトラブルによる出荷遅延とその後の納入遅れ、貧弱な販売体制、日本語未対応で英語のみしか使えないという問題山積みの状態であったため、富士通のV800シリーズの敵ではありませんでした。
1982年のV830STREAMはNECのACOS250対抗モデル。翌年より開始された「Z作戦」の主力として戦ったモデル。
OSはCPS80。言語はCOBOL、簡易言語CAPG、緊急処理のためのレポート機能IREPなど。システム80の販売価格は300万〜1000万円辺りでした。

ユーザック側の名称はUSACシステムx(モデル3、モデル5、モデル11等)。
Fujitsu Small System Processor。マイクロプロセッサMB8820の開発コード名。
CMOSを使った1万ゲートのLSI。毎秒250万回の命令が実行できる。当時はバイポーラLSIが一般的で、これだけ高密度高性能のCMOS LSIはなかった。富士通のオフコンは、以降インテル社製CPUが採用されるまで、FSSPとその改良型が使用されることになる。
1976年3月に開発開始し1977年6月に完成。
当時は互換性があることをウリのひとつにしていましたが、実際はハード的に互換性がありましたが、ソフト的には非互換でした。OSが違うためバイナリ互換ではなく、COBOLなどの言語仕様も若干違うためソースの変換作業が必要(ソース非互換)でした。(この非互換の解消のために、後にCOBOL Gが開発された。)
ただしこの時点では、日本語表示はディスプレイ上だけに限られ、プリントアウトされる文字は、相変わらず英数カナという変則的なものでした。プリントアウトに日本語が使用されるようになるのは、後に日本語プリンタが発表されてからです。特に1980年5月発表の日本語多目的プリンタ(FACOM6981A)はベストセラーとなりました。また日本語入力方式として、1981年には親指シフトキーボード(通称OASYSキーボード)が発表されています。この時に汎用機と同じ富士通日本語情報システム(JEF)のコード体系が採用されています。
(FACOM BmやV0の最後辺りのモデルでは、数百種程度の漢字をディスプレイに表示させることができました。)
正確にはモデル5が新製品で、従来の(無印の)システム80がモデル7となった。モデル5はスタンドアロンモデル、モデル7はワークステーション8台までつなげられるマルチワークの上位のモデル。
パソコンに近いモデル1、スタンドアロンでデスクトップサイズのモデル3とモデル4、スタンドアロンの最上位のモデル5、複数のワークステーションを接続できるモデル6からモデル8まで。最上位のモデル8は最大1.5MBまでの主記憶、67MBの磁気ディスク装置を4台搭載可能で最大28多重処理が可能であった。
また全モデルワープロで日本語文書を作成することができた。
ある特定の業種・業務向けのパッケージソフトとそのソフトで使用するハードウェアを1式まとめたもので、(当時の普通のオフコンと比べると)汎用性は低いが安価で操作が簡単便利という特徴がありました。富士通をはじめ各社いろいろな専用機を発売しました。
例えば、システム80を医療事務のシステム化に絞った専用機「HOPE80」が1982年8月に富士通より発売されました。これは複雑な医療事務処理をパッケージ化しただけでなく、ほぼ毎年実施される法令改訂の対応に至るまで全て富士通側で修正し、ディーラーに送付するという万全のサポート体制を行ったことから、非常に普及しました。HOPE80販売専門のディーラーもあったぐらい、よく売れました。Kシリーズ以降も「HOPEシリーズ」として後継モデルがあったようです。
他に1981年発表の司法書士事務書専用機のFACOM司、1983年の秘書業務専用のFACOM秘書システムなど多くの種類がありました。
またこの頃はシステム80を利用した専用機をソニーもいくつか発売していたようです。
Relational Database Manager
Database、Data Communication、Data Manupulation、Data Utility。
最終的な出荷台数は不明ですが、1984年4月段階でのVシリーズ、V800シリーズの累計出荷台数は約8000台と言われています。ただ、1984年11月には後継モデルのK270/K280が発表(出荷は翌年)されていますから8000台プラスアルファが最終的な出荷台数でしょう。
FACOM Vは小型コンピュータクラスであった為、ライバルは他社のオフコンではなく小型汎用コンピュータでした。特にNECの小型汎用コンピュータACOS250には、わずか数年で数百台のVシリーズとFACOM230-15をリプレースされてしまい、1983年には「Z作戦」を展開し巻き返しを試みました。「Z作戦」のZは、NECのNが倒れた形から命名されました。(Z作戦の由来は、なぜか結構有名ですよね。)