0. オフコンの先祖達(〜1974/8)
- 0.1 オフコン以前
富士通と言えば、継電器(リレー)式コンピュータが有名ですが、その後、パラメトロン式コンピュータ、トランジスタ式コンピュータへと順調に開発が進められました。
そして1964年5月にはIBM360の対抗として汎用コンピュータFACOM230が発表されました。このFACOM230はファミリ化が行われ、1965年3月に同シリーズの最小モデルであるFACOM230-10、続いて1970年4月にはその上位モデルにあたるFACOM230-15が発売されました。このFACOM230-10とFACOM230-15は、安価で性能もそれなりであったことから「国民車的コンピュータ」としてベストセラーになりました。1970年代に入ると、国内に超小型コンピュータが急速に広まりだしました。当時の大型コンピュータはバッチ主体の処理がほとんどだったため、大型、超大型コンピュータ分野の得意な富士通のコンピュータが主に得意とするものもバッチ処理でした。ところがオフコンにはバッチ処理の他にも伝票即時発行処理などのリアルタイム処理も必要となります。また、超小型コンピュータに対抗するには小型コンピュータのFACOM230-10/15しかありませんでしたが、FACOM230-10/15は汎用コンピュータの装置を使用しているため、他社の超小型コンピュータと比べるとかなり大型で扱いも難しいものでした。(1ランク上のコンピュータなのでそれだけ高価でもありました。)このため富士通は超小型コンピュータ分野で、他のコンピュータメーカーに後れを取ってしまいました。
- 0.2 ユーザックと内田洋行
その頃、ユーザック電子工業(現PFU)という会社が内田洋行と資本提携して、独自仕様の超小型コンピュータ(オフコン)を販売していました。ユーザックはオフコン専業メーカーであり、1968年にUSAC300を発表して以来、USAC400やUSAC720など数々のオフコンを発売していました。
ユーザック、内田洋行は、今後の業務拡大のために大企業との提携を望んでいました。一方、富士通の方は超小型コンピュータ分野の技術が必要でした。それぞれの思惑が一致して、1972年3月に三社提携が発表されました。オフコンの上位モデルは、FACOMブランドとし、内田洋行がディーラーとして販売する、一方、1000万円以下のものについては、同一モデルをFACOMブランドとUSACブランドとして販売することになりました。
- 0.3 V0開発計画
1973年5月から新しいコンピュータの開発計画が動き出しました。V0というコードネームで呼ばれた、これらのコンピュータは3種類の系統に分けて開発されることになりました。小型コンピュータ(でも3つの中では一番大型)でバッチ中心のV04、超小型コンピュータ(3つの中では真ん中の規模)でリアルビリング(リアルタイム処理)とバッチ兼用型のV02、同じく超小型コンピュータ(3つの中では一番小型)でリアルビリング中心のV01です。V04は、FACOM230-10/15の後継で富士通側が中心となって開発にあたる、V01がUSAC720の後継としてユーザック側が開発の中心となることになりました。そしてV02が万能型ということで今回の目玉となり、ハードウェア開発はユーザック、ソフトウェア開発が富士通として分業体制がとられることになりました。
初めての分業体制であり、ユーザック側はバッチ処理、富士通はリアルタイム処理に不案内などそれぞれが未知の部分があることから、2社の共同作業となるV02の開発は難航しました。ようやく1974年初めになんとか試作機が完成しましたが、その時には既にNECから新オフコン、システム100が発表された後でした。これに対抗するためさらに改良が必要となり、当初1974年5月に発表する予定が大幅にずれ込み、発表は1974年8月、出荷は翌年となってしまいました。
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FACOM230-10は1300台出荷、FACOM230-15は約2000台が出荷。当時この2モデルによって、富士通は小型コンピュータ(1000万〜4000万円クラス)の分野では国内トップシェアとなったらしい。
ちなみに、政府の”国民車構想”と高度経済成長を背景に、1960年代後半には日本の自動車保有台数が1000万台突破、自家用車は新三種の神器の1つにあげられていた。
実はちょうどその頃新オフコン、システム100を開発中で他社と提携する必要性がなかった。