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NECオフコンの歴史


5.漢字オフコンとパソコンと32ビットオフコン(1978〜1985/10)

前章では海外での状況を追って1986年まで話を進めました。本章ではITOS誕生後の日本に戻り、その後の日本のNEC製オフコンを追うことにします。



5.1 新OSに対応したオフコン

1978年9月から10月にかけて、新しいNEACシステム100シリーズが発表されました。従来のNEACシステム100E,F,Jにそれぞれ対応する後継機として、NEACシステム100/40,60,80が用意され、さらに上位のモデルとして新たにNEACシステム150、最下位にNEACシステム50が加わりました。

(1) NEACシステム100/NEACシステム150

これらのモデルは、前章で説明したように新OSのITOSとCPUとしてより高性能なマイクロプロセッサμCOM-1600が搭載されていました。ITOSの機能を十分に生かすために、ディスプレイの表示文字数は80字×25行の2000文字、フロッピーディスク装置も1メガバイトのものに上げられました。

主力のNEACシステム100シリーズは3モデルからなり、NEACシステム100/40はフロッピーディスクモデル、NEACシステム100/60は、磁気ディスクのバッチ処理中心モデル、NEACシステム100/80は磁気ディスクのマルチワークリアルビリング中心モデルとして売り分けられていました。

NEACシステム150は、NECオフコンの最上位のモデルとして、当時のNECの汎用コンピュータの最下位モデルACOSシステム200に迫る性能を持っていました。このNEACシステム150は、同年に発表されたIBMのシステム/38というコンピュータに対抗するために作られたものです。

アメリカで基本設計が行われ当時最新の思想を具体化したOSのITOSと”高級”COBOLや簡易言語SMART、APLIKAといったSW群、それに十分応えるだけの性能を持ったHWを兼ね備えたNEACシステム100とNEACシステム150は、性能・価格どれをとっても他社を大きくリードしていました。これは発表後1ヶ月で600台受注獲得、3ヶ月で一千台出荷という結果に現れました。

(2) NEACシステム50

最下位オフコンのNEACシステム50は、少し説明が必要かもしれません。

新機軸のOSの開発は長期に渡り、NEACシステム100Jの発表(1976年8月)から新NEACシステム100の発表(1978年10月)まで2年のブランクがあります。NECは全LSI化(NEACシステム100E,F,J)で他社に先行しましたが、この2年の間に他社もおおよそ追い付いてしまいました。さらに当時は30〜60社とも言われるオフコンメーカーがしのぎを削っている状況で、特に下位モデルでの価格競争が激化していました。NECの営業担当者やディーラーの採った対抗策は、インテリジェント・ターミナルN6300/50Fをオフコンとして販売することでした。

NEACシステム50は、このN6300/50Fのマイナーモデル(N6300/50F-4)と同一機種で、それに一部オフコン用として機能強化を図ったものです。いわばNEC本体が販売員たちの採った手段を追認したわけです。



5.2 NECの漢字オフコン

1978年初めに東芝を筆頭とする各社が次々と漢字に対応したオフコンを発表、翌年から出荷を開始し始めます。NECはこれに大きく出遅れてしまうことになりました。1978年初めはITOS搭載の新オフコンの発売とその出荷で多忙を極め、3月頃にITOS事件が発生、その対処に1年掛かることになるからです。

1979年の中旬、先行メーカーは次々と漢字対応オフコンを出荷、出遅れ組のメーカーも発表までは終わらせている時期になってもまだ正式発表はありませんでした。この時期、システム50の元機種であるN6300シリーズは漢字対応を済ませています。ようやく漢字対応オフコンが正式発表されたのは1980年2月で、出遅れ組の出荷も始まろうかという頃でした。

こうして1980年の前半にII型と呼ばれるモデルが順次出荷されます。NEACシステム50II、NEACシステム100/40II、NEACシステム150IIなどのように従来のモデル名の後ろにそのままII(2)が付いています。実際これらのモデルは一部のモデルで漢字出力のためのメモリ容量増強が図られた以外、漢字対応が主のマイナーチェンジとなっています。ただしNEACシステム50IIだけは別で、インテリジェント・ターミナルを流用したモデルから、NEACシステム100シリーズと同一系統のモデルに変更されています。



5.3 NECシステム100・5シリーズ

さらに1980年から1982年にかけて5シリーズがリリースされました。この5シリーズは、企業の規模や業務内容に応じた幅広い用途に使用できるようファミリ化が進められ、システム20/15からシステム150/75までの7モデルが用意されていました。このうちシステム20は、当初ビジネスパーソナルコンピュータと呼ばれていました。また5シリーズから、従来のNEACシステム100からNECシステム100へと名称が変更されています。

このシリーズでもいろいろな機能強化がされているわけですが、1つ1つ細かいものを挙げても仕方がないので、おもしろいものだけ紹介します。今から見るとごく当たり前なものがこのシリーズから付きました。バッテリーバックアップ付きの計時機構(つまり時計)です。これまでのオフコンは計時機構が付いていないか、付いていてもバッテリーがないため、オフコンの電源を切ると計時できなくなっていました。このため、オフコンを起動してから一番最初に日付と時刻を手で入力するという作業を毎回行っていましたが、それが必要なくなったのです。

(1)NECシステム150

1980年5月に富士通がFACOM V850を発表しました。これはNECのシステム150に相当するモデルで、対抗上1980年10月にNECシステム150/55が発表されました。さらに1982年7月に富士通が最上位モデルのFACOM V870を発表すると、1982年10月に同クラスのNECシステム150/75を発表しています。

(2)NECシステム50、NECシステム100

1981年4月に5シリーズとしてシステム20/25、システム50/35、システム100/45、システム100/85の4モデルが発表されました。これらは従来のシステム50、システム100の純粋な後継モデルです。

(3)オフコンとパソコンの合いの子・NECシステム20/15

1970年代後半頃からアメリカで新しい種類のコンピュータ・パーソナルコンピュータが登場します。アメリカ・ダラスで1977年に開催されたNCC77では、展示場の片隅でパーソナルコンピュータが展示されていました。その多くはホビーの延長でしたが、その中にはキーボード、ディスプレイ、プリンタを接続して、会計計算などのコンピュータのような仕事をさせているものもありました。さらに翌年のNCC78では、パーソナルコンピュータは本会場に堂々とブースが用意されるようになっていました。NCCに出展するために訪米したNECの技術者達は、このパーソナルコンピュータに注目します。

オフィスコンピュータのさらに下位に新しいコンピュータ、パーソナルコンピュータ(パソコン)が生まれようとしているなら、当然NECとしては自社のラインナップにパソコンも取り込まなければなりません。オフコンの開発も行っていたNECの情報処理部門は、ビジネス処理にも使用可能な16ビットパソコンの開発に乗り出しました。

まず、第1の候補が、端末担当部門が提案したインテリジェントターミナルN6300の小型・低価格版でした。

第2の候補はオフィスコンピュータ部門提案のプランで、オフコン・NEACシステム100の小型化・廉価版でした。新パソコンの開発には、オフコンの技術を流用、CPUにはオフコンにも使用されているNECオリジナルの新鋭の16ビットのμCOM1600を使用、さらに対話型OSのITOSを載せ、従来のオフコンソフトをそのまま使えるようにする、その上、漢字の取り扱いも可能とし、従来の言語に加えてBASICも使えるものを目標としていました。

こうして1981年4月、オフコンの小型版パソコンとしてビジネスパーソナルコンピュータ・NECシステム20/25が発表されました。さらに翌年小型化したNECシステム20/15が発表され、ビジネスパソコンとしてシリーズ化されました。デスクトップサイズの筐体にオフコン・NECシステム100シリーズとの互換性を持ち、さらにパソコンとしてN16-BASICという言語が使用できました。

これらを開発中に第3の候補として、PC-8801の上位互換パソコンが急浮上してきました。

結局、第1候補が後のN5200シリーズ、第3候補が後のPC-9801シリーズとなり、この2シリーズがNECのパソコンの本流となりました。このためNECシステム20はラインナップ上の見直しが行われ、NECシステム20系統はオフコンの最下位モデルとして生まれ変わることになります。

NECシステム20の面白いところは、音楽を鳴らす機能が付いていることです。例えばオフコンを立ち上げると「ユー・アー・マイ・サンシャイン」、メニュー画面表示中は「ウェストミンスタチャイム」、プログラムをロード中は「エリーゼのために」、データソート中は「乙女の祈り」、フロッピーディスクの交換すると「シューベルトのます」、エラーが発生すると「禁じられた遊び」が演奏されます。(まだまだあります。)今ではとても考えられませんが、ユーザのオフコンアレルギーを解消するために試行錯誤したということでしょう。



5.4 32ビットオフコン

1983年から1984年にかけて8シリーズがリリースされました。

8シリーズで特記すべきこととして、1984年4月にリリースされた8シリーズ中上位モデルに搭載された初の32ビットプロセッサIDP-1が挙げられます。(NECシステム20とNECシステム100の下位モデルは従来通り16ビットプロセッサです。)
1982年11月に三菱電機がオフコン初の32ビットマイクロプロセッサを搭載したオフコンを発表しています。主要メーカーはこれに追随して次々に32ビットオフコンを発表しています。NECの32ビットオフコンは三菱電機に遅れること1年で発表となりました。

これ以降S7200シリーズまで、このIDPシリーズがNEC製オフコンのCPUとして使われることになります。このIDP-1とこの新プロセッサに対応するOS(ITOS-4(V) R11.1)によって、仮想記憶制御、データベース、メッセージ管理IIIなどの数々の新機能が8シリーズで実現されました。




5.5 NECシステム50/スーパー8

1983年末にNECシステム50/スーパー8というモデルが登場しています。他の「数字だけ名称」モデルとは異なり「スーパー」という言葉が付くことで分かる通り、これはNECの期待を背負って登場したモデルです。

オフコンの最下位モデルとパソコンの最上位モデルのちょうど間の価格帯は、従来よりコンピュータメーカー系オフコンメーカー(NEC、三菱、東芝、富士通、日立)がもっとも苦手とする領域で、その領域を狙って数多くの非コンピュータメーカー系オフコンメーカーが自社オフコンを投入していました。当然のことながら、NECもその領域を狙ってNECシステム20を投入しましたが、その領域では平均的性能であったため、今ひとつ伸びませんでした。NECには廉価版の普及型オフコンとしてNECシステム50も擁していましたが、この領域に投入するには若干高めの価格設定でした。このためNECシステム50並の性能を持つオフコンを、この超低価格帯に投入するために開発されたオフコンが、NECシステム50/スーパー8でした。






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1979年3月中旬に出荷台数が1000台を越えた頃、新モデルを使っている最中に、システムが急に動かなくなったり、画面が突然消えてしまうという問題があちこちのユーザで発生した。従来のオフコン用のOSは1万行から2万行であったが、ITOSは20万行もあった。また外部OSといえるSMARTが10万行ほどあった。原因は、従来と比べてソフトの規模が10倍になったが、巨大になったシステムをまとめる部隊がなかったこと。解決に向けて全社体制で組織を作り、4ヶ月目でほとんど正常に動く改訂三版(R3.3)、約1年後に正常に動き、R3.3で一旦落とした機能を追加したR3.5をリリースし、事件は解決した。R3.5ではOSの規模は約30万行となった。
(別資料では1979年7月頃までの約半年間ぐらい影響が続いたという意見もある。とりあえず正常に動くR3.3ができたのが4ヶ月目なので、それが全国のオフコンに適用されるのに1,2ヶ月かかったと考えれば話は合う。)
この当時一般的にオフコンをクラス別に分けて考えることが多く、大抵の場合、普及機(あるいは小規模オフコン)、中級機(中規模オフコン)、高級機(大規模オフコン)のように3クラスに分けていた。NECのオフコンもこれに合わせて、普及機クラスをNEACシステム50シリーズ、中級機クラスのオフコンをNEACシステム100シリーズ、高級機をNEACシステム150シリーズと分けた。実際のところ、NEACシステム100シリーズとNEACシステム150シリーズは規模が違うだけで、上位下位の互換があった。
NECは定価を下げると言うことは一切しなかった。また機能強化も行わなかったため、オフコンの最下位モデルNEACシステム100Eは、他社同クラスのものと比べ2割も割高な値段で、どんどん商品価値が下がっていった。
1970年代後半のメモリのLSI化や磁気ディスク、フロッピーディスクの採用によって、記憶容量が増大し、漢字対応への準備が整った。1977年の年末にあるオフコンメーカーが漢字対応のオフコンを発表、それに対して1978年5月のビジネスショーで東芝他いくつかのオフコンメーカーが漢字オフコンを発表あるいは参考出展した。東芝とカシオは既にある程度準備ができていたと見えて、その年の年末には出荷開始した。それでも発表から出荷まで半年以上あるわけで、あわてて発表したことが良く分かる。一方もっとも出遅れたのが主要メーカーではオフコン御三家の残りの2つ三菱とNEC。この頃はオフコンメーカーは30〜60社(数え方によってに差があります)もあり、漢字対応できず/せずに脱落したメーカーも多い。
一口に漢字対応と言っても、いろいろなレベルがある。(1)画面に漢字が表示できる、(2)COBOLや簡易言語などが漢字に対応している、(3)マスタファイルなどデータに漢字が使える、(4)プリンタに漢字が出力できる(伝票に漢字が印刷できる)、さらに、漢字入力が、(i)漢字コードを番号で直接入れるのか、(ii)ワンタッチ入力装置から選んで入れるのか、(iii)現在のパソコンのようにカナ漢字変換するのかetc。漢字オフコンは(1)〜(4)までできるのが基本だが、画面に出るがプリンタに出せないとか、逆にプリンタには出るが画面に出ないとか、実はいろいろ制約があるオフコンを出したメーカーも初期には一部ある。ITOSのCOBOLには120種類の漢字だけ画面表示できる簡易漢字機能があり、一応120文字だけとは言え(1)と(2)は満たしていた。この120文字は事務関連でよく使用される漢字だったので、正式な漢字オフコンが登場するまでこれでごまかすことができた。
普通ならば漢字対応の遅れはユーザのNEC離れとなるところだが、ITOSと簡易漢字対応で乗り切り、結局致命的とはならなかった。
NEACシステム50、NEACシステム100が3882字種、NEACシステム150が8000字種。漢字対応は他メーカーより遅かったが、オフコン全機種フルラインで漢字対応を謳ったメーカーとしてはかなり早め。(逆に他オフコンメーカーは、漢字対応は上中位モデル中心で下位モデルまでの展開が遅れた。)ただし、この時点では漢字が画面に表示できます、プリンタに漢字印字できますというレベルで、データ入力時に漢字変換入力できるのは次のシリーズから。
システム20/25、システム50/35、システム100/45と最後に”5”が付くため、5シリーズと呼ばれている。
オフコンに新モデルを投入したことで、同じ機種をインテリジェント・ターミナルとオフコンと2つに分けて販売するメリットはなくなった。それどころかオフコンがシステム50系統とシステム100/150系統の2つに分かれてしまうことによるデメリットのほうが大きい。このためラインを整理した。従来のシステム50を使用したいユーザは、インテリジェント・ターミナルN6300シリーズを使えばよいので何の問題も発生しない。
ちなみにこの頃は普及型オフコンに愛称をつけることが流行っており、システム50には”エレガントオフコン”という愛称が付いていた。
5シリーズとしては、システム150/55が半年程度発表が先行したが、実質5シリーズの発表はこれらのモデルが発表された1980年4月になる。システム50/35、システム100/45、システム100/85は、それぞれ従来のシステム50II、システム100/40II、システム100/80IIの後継モデル。従来のシステム100/60IIは、40と80の間に挟まれて独自性を出すことができず、ほとんどのユーザはシステム100/80を選択した。このためシステム100/85に吸収された。システム20/25は、システム50の下位を目指したモデル。オフコンの最下位モデルのさらに下位の領域は、中小のオフコンメーカーのニッチ市場となっており、NECがそこへ進出するために出したモデルである。
1977年に開催されたナショナル・コンピュータ・コンファレンス。この展示会には、NECのオフコンNEACシステム100、プリンタのスピンライター、インテリジェント・ターミナルN6300/50なども展示している。
NECは、1979年5月に8ビットのマイクロプロセッサを使用したパソコンPC-8001を発表しているが、これはNECのコンピュータの本家本元の情報処理部門ではなく、半導体開発部門が開発した。その後、半導体部門、情報処理部門、新日本電気の3部門がパソコンの開発に手を挙げた。1981年初頭に3部門の調整会議が行われ、16ビットパソコンは情報処理部門、新日本電気は8ビットの家庭用、両者の中間の8ビットパソコンを半導体部門が担当することになった。情報処理部門は、この会議の結果に則って16ビットパソコンの開発に手をつけること(後のNECシステム20)になりますが、パソコンの定義を巡って悩み、その間に情報処理部門のさらに1部門である端末装置部門が別のパソコンを提案(後のN5200)することになる。
CPUに16ビットのインテルの8086を使用。OSはN6300のNTOSと互換のPTOSという専用のものを用意。最初はパソコンではなく、「パソコンにもなる、1人1台を目指した汎用コンピュータの端末装置」という意味でパーソナルターミナルとして1981年7月にN5200モデル05という名前で発表された。これは後にビジネスパソコンN5200シリーズになる。
当時のパーソナルコンピュータは必ずと言って良いほどBASICという言語が搭載されていた。逆にBASICが搭載されていないコンピュータは、パソコンではないとすら思われていた。
開発コードネームはBPC。ビジネスパーソナルコンピュータの頭文字を採ったもの。
対話型OSのITOSに、ワープロ、グラフ作成、表計算機能を持つ原始的なOAソフト・PRISM、簡易言語のSMART、オフコンの主流言語のCOBOL、アプリケーションパッケージのコンパクトAPLIKAなど、オフコンとほぼ同じソフトを用意することができた。
半導体部門は、PC-8001の後継機としてPC-8801というパソコンを発売していた。このPC-8801の互換性のある16ビットパソコンを開発する案が急浮上、1982年3月にN10プロジェクトとして開発が開始された。この成果がPC-9801である。端末装置部門のN5200は1982年5月にビジネスパソコンという新たな位置付けで発表された。1982年4月にシステム20、続いて1982年10月にPC-9801がパーソナルコンピュータとして発表された。これにより3種類のパソコンがNECの情報処理部門から発表されることになった。この整理のため、NECシステム20はオフコンに再設定されることになる。PC-9801は、新日本電気のホビー向けパソコンPC-6001及び上位のPC-6601、半導体部門の8ビットパソコンPC-8001及びPC-8801、そして最上位モデルPC-9801という1つのラインナップに組み込まれた。N5200は汎用コンピュータの端末装置にもなる事務用途向けパソコンという住み分けが行われた。
システム20/25では標準状態では通常作業中からエラー発生時までありとあらゆる場面でいろいろな音楽が鳴っていましたが、さすがにうるさかったのか、翌年発表のシステム20/15では標準状態では音楽が鳴るのはオフコン起動中やフロッピーディスク交換中など数パターンのみとなり、エラーはブザー音、通常動作中は鳴らない設定に変わっていました。
NECシステム100/58、NECシステム150/68というように一番最後に”8”が付くため、一般的に8シリーズと呼ばれている。
NECシステム100/48、NECシステム100/58、NECシステム150/68、NECシステム150/78の4モデル。
これまでのシステム100シリーズのCPUはμCOM-16やその後継のμCOM1600などの16ビットプロセッサだった。
100万円後半から300万円台。システム20/25がだいたい300万円〜、システム20/15が180万円〜、システム50/35は400万円を超える。スーパー8はだいたい270万円〜。ちなみにスーパー8の後継機のN8になると190万円〜まで安くなる。