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NECオフコンの歴史


4. 海外進出と先進的なOSの誕生(1976〜)

4.1 NECオフコンの海外進出計画

1970年代中旬、コンピュータの貿易自由化が行われると、コンピュータメーカーの中には逆に積極的に海外に進出していこうという機運が生まれました。1975年2月にNPL計画の中でいち早く誕生したNEACシステム100は、当然NECの最新鋭機種として海外進出候補として挙げられました。

NECのオフコン、NEACシステム100の最初の海外進出は、1976年にオーストラリアで始まりました。現地のNECオーストラリアでノックダウン生産し、販売は提携していたHIS(ハネウェル・インフォメーション・システム)で行うというものでした。
これは販売を担当したHISの思惑もあって、あまり成功せず、数年で終了したようです。

1976年に、当時世界有数の見本市である西ドイツ・ハノーバーメッセとアメリカ・NCCに当時最新のプリンターなどと共にNEACシステム100も展示しました。
これらの展示会で、マイクロプロセッサを用いたNEACシステム100に興味を持つ企業があることが分かり、実際欧州で現地業者から代理店販売の申し込みが2,3ありました。しかし、NEC社内の海外事業に対する体制が固まっていないこともあり、これらの話は進みませんでした。


4.2 アメリカでのSBC調査

今までアメリカのコンピュータ業界情報はハネウェル社から得ていましたが、もうそろそろハネウェル社一辺倒の体制から脱却する必要があり、また上記のように海外での事業の見込みがあることから、NECはまずアメリカ市場から本格的にオフコン販売を始めることとし、1977年4月、アメリカにNECISという会社を設立しました。

NECIS設立前から既にアメリカにおける小型コンピュータ、スモール・ビジネス・コンピュータ(SBC)の市場調査が開始されていました。その結果、現在のNEACシステム100では、到底アメリカ市場に受け入れられないことが判明しました。

そこで、新会社設立と同時に、現地のコンサルタントから2社を選び、NEACシステム100の改良に取り組むことになりました。


4.3 ITOSの誕生

アメリカでの調査を通じて、新しいオフコンの姿が見えてきました。それは、何台もの端末がつなげて同時に使用でき、しかも普通の人が簡単に使えるというものでした。この実現のため、まったく新しいOSが作られることになります。

この成果はまず日本で発表されました。1978年9月から10月にかけて相次いで発表されたNEACシステム150とNEACシステム100/40,60,80には新OS、ITOSが搭載されました。このITOSとは「Interactive Tutorial Operation System」の略の通り、コンピュータと対話しながら、コンピュータからの指導を受ける形で業務が簡単にできることを目標に作られたOSです。マルチユーザ・マルチタスクでリアルタイム処理もバッチ処理も可能と当時のオフコン分野としては画期的なOSでした。ITOS上で動作するアプリケーションも、ERPパッケージソフトAPLIKA、対話型簡易言語SMARTなど新しい種類のソフトウェアが数多く用意されていました。

NEACシステム150およびNEACシステム100/40,60,80には、新OSが十分な性能を出せるように、従来より高性能のマイクロプロセッサ、μCOM-1600をCPUとして搭載しました。

新しいNEACシステム150/100シリーズとITOSは、1979年1月から出荷が始まりました。出荷台数は順調に延び、わずか3ヶ月間で千台を突破しました。
ITOSリリース直後には、いわゆる”ITOS事件”と呼ばれる大問題も発生しましたが、NEC全社的な対応により無事乗り切る事ができました。



4.4 その後の海外進出状況

こうして、「インタラクティブな新OS」、「最新のマイクロプロセッサμCOM-1600」、「IBMのOEMで一躍有名になったスピンライター」という3つの強力な武器を備えたNEACシステム100シリーズのアメリカ版「ASTRA」シリーズが1979年3月のNCC'79で発表されました。いくつかの手ごたえはあったものの、1976年のNCCから既に3年近く経って当時とは状況も変わり、数多くのミニコンメーカーと当時台頭してきたパソコンの中に埋もれてしまい、アメリカでのNEACシステム100は成功とは言えませんでした。

1981年頃にはアメリカ版オフコン「ASTRA」を現地生産するなど販売強化に努めました。しかし結局NECシステム100VSのアメリカ版オフコン「ASTRAシリーズシステムVS」が最後になります。1986年のNCCにて、NECはアメリカで事務向けコンピュータにUNIXを採用することを発表しました。これ以降ASTRAという名称は、CPUが68020、OSにUNIX SystemVが稼動するコンピュータに渡され、この後にシステム100の系統のコンピュータがアメリカで販売されることはありませんでした。

結局、NEC独自仕様で他のコンピュータとは互換性のないNEACシステム100は、アメリカでは受け入れらなかったということです。

一方、東南アジア、東アジアを中心とする地域にも販路を広げましたが、こちらはそこそこの売り上げがあったようで、ごく最近まで販売されていたようです。






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HISは自社内でNEACシステム100と同クラスのモデルを複数機種抱えていたため、米国内、欧州内ではHISを通しての販売はできなかった。
初期ロッドは100台。最初はHISでの販売だったが、後にテコ入れのため自社ブランドで販売に変更。初期ロッドが掃けた時点で撤退となった。
ナショナル・コンピュータ・コンファレンス。1976年度の他、1977年のNCCにもNEACシステム100を展示。
全LSI化したバトミントンプリンター(アメリカ名:スピンライター)で、1976年のNCCを契機として、自社販売の他、IBMのOEMとしても大いに販売された。高性能プリンターとして、NEACシステム100や後に述べるインテリジェント端末・N6300にも搭載された。
NEC・インフォメーション・システムズ。設立1977年4月。本社はマサチューセッツ州レキシントン。プリンタ、周辺端末機器の販売が主。オフコンはディーラー販売。1979年当時のアメリカでのディーラー数は7社。
海外でオフコンに相当するコンピュータは、スモール・ビジネス・コンピュータ(SBC)と呼ばれているらしい。
アメリカのコンサルタント、業界誌の記者、SBCのユーザ等を回った結果、日本市場とはまったく違った世界であることが判明した。小型コンピュータクラスではIBMの小型機はあまり問題とされておらず、数百のミニコンピュータ企業が競い合っていた。また日本で主流のバッチ処理ではなく、使用者が画面に現れるメニューに従って操作し、即座に答えが返ってくるリアルタイム処理が主となっていた。
1978年発表のNEC開発の16ビット・マイクロプロセッサ。だいたい同じ時期にインテルが8086を発表している。
1979年3月中旬に出荷台数が1000台を越えた頃、新モデルを使っている最中に、システムが急に動かなくなったり、画面が突然消えてしまうという問題があちこちのユーザで発生した。従来のオフコン用のOSは1万行から2万行であったが、ITOSは20万行もあった。また外部OSといえるSMARTが10万行ほどあった。原因は、従来と比べてソフトの規模が10倍になったが、巨大になったシステムをまとめる部隊がなかったこと。解決に向けて全社体制で組織を作り、4ヶ月目でほとんど正常に動く改訂三版(R3.3)、約1年後に正常に動き、R3.3で一旦落とした機能を追加したR3.5をリリースし、事件は解決した。R3.5ではOSの規模は約30万行となった。
(別資料では1979年7月頃までの約半年間ぐらい影響が続いたという意見もある。とりあえず正常に動くR3.3ができたのが4ヶ月目なので、それが全国のオフコンに適用されるのに1,2ヶ月かかったと考えれば話は合う。)
アストラ。アメリカでのブランドネーム。最初の発表モデルはASTRA210、230、250、280(それぞれ日本のNEACシステム100/40、100/60、100/80、150に相当する。)の4モデル。
1976年にNECコンピュータ・シンガポールを設立、シンガポールを中心にタイ、マレーシア、フィリピン、台湾、香港などにオフコン販売網を広げた。それとは別に韓国などにも販売している。ヨーロッパにはほとんど輸出はされておらず、わずかにソ連にモスクワオリンピック用ホテルシステムとして受注された程度。
今も販売されているかは不明。少なくともExpress5800/600シリーズに海外版があるらしいことは分かっている。