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日本事務器のオフコン


NECのオフコンの歴史のところで少し書きましたが、1961年にNECは日本事務器からの要望に応えて、NEAC-1201というプレ・オフコンともいうべきコンピュータを作りました。このNEAC-1201は日本事務器が専売し、かなりのヒット商品となりましたが、1970年代に入るとさすがに他社の最新のコンピュータにはかなわなくなってきました。

この時に、すぐにNECから後継機が発表されれば良かったのですが、そうなりませんでした。

日本事務器としては、早く売れるものが欲しい。このままNECに頼っていては、売上が落ちるばかり。同時に脱NECも図りたいと考えていた日本事務器は、光電製作所という会社に製作を依頼して、自社ブランドのオフコンを販売することにしました。

こうして1971年に、SYSTEM-2が発売されます。このオフコンは、記憶素子に磁気コアを使用、入力装置としてキーボードの他に紙テープリーダあるいはカードリーダを備えていました。プログラム言語はPONYというものを使うことができました。さらに1973年に、上位モデルのSYSTEM-7を発売、ファミリ化を行います。
1974年9月にSYSTEM-2の後継モデルのSYSTEM-2Fを発売しています。

そして1975年11月、SAVAS SYSTEM30/20が発売されます。記憶素子は磁気コアだったものの、その容量は16KBから64KBまでと大容量で、80×24のキャラクタディスプレイ装置で画面出力が可能でした。またカートリッジディスク装置複数接続可能、ワークステーションも8台まで接続可能という大型のシステムでした。原始的ながらOSも付属しマルチジョブ可能、使用できる言語もCOBOL系のCOBALTがありました。

ところが日本事務器の経営の悪化が原因で、しばらく後に自社ブランドオフコンは販売終了してしまいました。

どのくらい販売されたのかは不明ですが、当時経営悪化の原因のひとつとして自社ブランドオフコンが挙げられていたことから、あまり売れなかったのだと思われます。いずれにしても、1973年半ばには、NECからNEACシステム100が発表されたわけですから、自社開発をする必要もなくなったわけです。






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1970年代に入ってから、マイナーチェンジモデルのNEAC-1240D(1972年)も発売されましたが、元のアーキテクチャが10年も前のものなので、他社の最新モデルと比較すると見劣りする状態。
1970年代前半、NECは技術提携をしていたハネウェル社の内部抗争のゴタゴタに巻き込まれてしまい、コンピュータ開発に混乱をきたしていました。結局このために(東芝が抜けたということもありますが)、NECの汎用コンピュータは、ACOS-2系、ACOS-4系、ACOS-6系とアーキテクチャの全く違う3系列に分かれてしまいます。ここはオフコンのサイトなので、汎用コンピュータの話はここまで。
恥ずかしながら私はあまりこの会社のことを知らないのですが、この会社が1960年代にパラメトロン式の商用コンピュータを自力開発していることからみて、かなりの技術力のある会社であることはたしかです。(パラメトロン式コンピュータの実機まで開発したメーカーは、NEC、富士通、日立、三菱電機、沖電気、光電製作所と(東大のパラメトロンの研究に協力した)日本電子測器のみ。)
ファミリネームはSun Vビリングシリーズらしい。
この頃はオフコン分野に新規参入する会社も多く、各社のモデルチェンジの頻度も徐々に上がっていました。また技術革新も早く、発売開始したモデルがすぐに旧式となることも多かったようです。この競争に遅れを取らないようにするには、かなりの投資が必要で、撤退は妥当なところでしょう。メモリに磁気コアを使用できるのもだいたい1975年あたりが最後なので、もし続けていくとしたらかなり大変だったと思われます。
私見ですが、この日本事務器の造反劇が、NEACシステム100でNECが日本事務器の専売契約を改めた原因の1つなのかもしれないと思います。