「隠れオフコン」の時代(1) 前書き編

1:「隠れオフコン」の時代(1) 前書き編
EXCHANGE 08/26 11:49
* ダウンサイジングに始まったPCサーバの社会進出によって、世の中は「オープン系にあらずばコンピュータにあらず」という雰囲気に変わってしまいました。 そして「オフコン」は以前の先端的イメージから、「時代遅れ」「クローズ」といったマイナスイメージにすっかり転落してしまいました。オフコン各社は「オフコン」を生き延びさせるため「オープン連携」に力を入れるとともに、「オフコン」という呼び名のもつマイナスイメージを打ち消す(薄める)ため「オフコン」という名称をやめ、「オフィスサーバ」「ビジネスサーバ」等という新しい命名を使用するようになりました。

* いまや「オフコン」は「**サーバ」というまるでPCサーバと区別のつかない名前をつけられて、部品も、外見もPCサーバと見分けがつかない姿で「こっそり」と販売されるようになりました。

 客「君、我が社はサーバに変えたいんだが、いったいこれはオフコンなのかサーバなのか、どっちかね?」 セールス「社、社長。こ、これはオフコンのソフト資産がそのまま使えるサーバでして。。つまり、サーバで。。」



* 私は現在のこのようなオフコンの姿を「隠れオフコン」と呼んでいます。現代はまさに「隠れオフコンの時代」といえるでしょう。



* 今回から、連載で「隠れオフコン」の生態、その傾向と対策、その将来などを考察してみたいと思います。リストラの危機に瀕する「隠れオフコン」への熱い応援歌です。 乞うご期待!!



2:「隠れオフコン」の時代(2) 前史
EXCHANGE 08/29 14:34
* オフコンというのはいつ頃からこの世に現れたのでしょうか? 私はいわゆる情報学部系コースを出た人間ではなく、途中からこの分野に参入致しましたので、あまり始まりのほうのことは知りません。



* 私が初めてコンピュータに触れたのは、オリベッティ社の「???」(忘れた)という技術計算と兼用の超特大ポケコン(矛盾した形容詞!)にオ社の電動タイプライタ、そしてMLUと呼ばれる、透明なケースに入ったエンドレス磁気テープをランダムアクセス装置として加えた、非常に独創的な「オフコン」でした。

言語は記号を使ったアセンブラでした。 私はこれにカブレて「A↑ C/↓」等というソフト???を作って、売上伝票の作成、タイムカードから勤怠時間の計算などをしたことを覚えています。

もっともオ社は後に、オーディット7という結構大がかりな事務用コンピュータを発売し、言語もPL/1が使えるレベルまで到達しました。 また、超小型機においては名前は忘れましたが、「画面」をまず作成し、それから画面上の項目に手続きを記述するという、「フォーム」−>「コントロール」−>「イベント」を予感させる今思えばなかなか現代的な作風の言語があったように思います。



* やがて、三菱電機のMELCOMの登場です。MELCOM86という一世を風靡した「オフコン」は本体メモリ以外にディスク上のエリアもメモリとして使える、それから結構整備されたアセンブラ言語が使える、紙テープ装置有り、カラフルなデザインといった特徴がありました。MELCOM88はその後継機種です。

  そしてこれを追うのが東芝のTOSBAC1150、1350という機種です。1350は私の記憶ではアセンブラっぽいのですがメイン、サブのセクションで区切られた記述、グローバル変数、ローカル変数といった本格的で大規模な言語があったように思います。

  さらにもうひとりの雄は、リコーのRICOM8でした。これはでっかい墓石のような本体にコアメモリを入れ(電源を切っても中身が消えない!!)IBMのゴルフボールヘッドのプリンタを付け、紙テープ装置を備えた比較的素直な構成のマシンでした。

RICOM8Eでは磁気ドラム装置などがついていたと思います。

言語は素直な感じのアセンブラでした。



* これら3社は初期の「オフコン御三家」といえます。

どれも低価格(といっても100?500万円)くらいはしたと思う)、表示装置が「なし」もしくは「1行の表示管」、言語アセンブラ、バイトマシンではなくワードマシン(メモリ容量はXXバイトではなく、XXX語という表示になります)でした。



* この辺当たりは、今から25年ぐらい前でしょうか?



* その当たりを境にして、ぼつぼつCOBOLコンパイラが使えるオフコンが登場します。また「御三家」よりは少し大仰で、大型機のやり方を下位機種に適用した感じのやや効率の悪いオフコンを「富士通」「NEC」あたりが販売攻勢をかけてきました。



* 外資系IBM S36、 JBC(このころはJBCCではなかった。JBCはとことんアセンブラ機でしたね)、日立、内田洋行、さらに シャープのHAYAC、 SEIKO社、 カシオ社までもが「オフコン」を発売してまさに百家争鳴、「オフコン時代の」ひとつのピークでした。



* やがて、平成の時代に入る頃には多くのメーカは次第に淘汰され、「富士通」「NEC」「IBM」の「新御三家」ともいうべきOS開発力のある大メーカに主導権が移っていきます。



(続く)



3:Re: 「隠れオフコン」の時代(2) 前史
tahrayan 09/02 12:56
いつも詳しいお話をありがとうございます。

この前も書いた通り、私は80年代後半ぐらいからこの業界に入った人間なので、それ以前のことは資料でしか知りません。

昔のオフコンはピンキリでメーカーによってかなり機能差があったように思います。カシオのオフコンを見たときは、オフコンと言うよりもパソコンじゃないの、と思ったことを覚えています。(使ったわけではないので、外観でです。)



EXCHANGEさんの書かれている通りに、私も昔教えられたことがあります

つまりオフコンは、ユーザック(内田洋行)や三菱のように伝票発行機や会計機から発達したものと、富士通や日立のように汎用機(の超小型機)から来たものの2種類があるということです。



>* やがて、平成の時代に入る頃には多くのメーカは次第に淘汰され、

>「富士通」「NEC」「IBM」の「新御三家」ともいうべきOS開発力の

>ある大メーカに主導権が移っていきます。



今は、世間的には未だにNECはオフコンから撤退したと思っている人が多いので、今の「オフコン御三家」といえば「IBM」「富士通」「三菱電機」という人も多いのではないかと思います。

実は、このサイトを立ち上げた理由の1つはそういう認識を改めてほしいということもあります。



4:「隠れオフコンの時代」(3) 前史後編
EXCHANGE 09/26 20:24
* 前回は、前史前編として今から約25年くらい前までを中心にお話ししました。NECでいうとシステム100が登場する(1979年)以前です。この当時はすでにお話ししたとおり「三菱メルコム80シリーズ」「東芝TOSBAC1150、1350、システム15」「リコーRICOM8、ペンコールシリーズ」といった「旧御三家」の全盛時代でした。

そして、オフコン勃興期、上げ潮の時代でありました。



* この時期までのオフコンには共通した特徴があります。それは (1)OSと呼ばれる物があまり発達していなかったこと。モニタだとか、スーパバイザだとかいった簡単な監視ソフト管理ソフトが搭載されていました。

 (2)言語にアセンブラや独自の言語を搭載していた。データベースもありません。

 (3)ディスク容量はきわめて少なく1?5MBぐらいがザラでした。それも固定ディスクではなくカートリッジディスクという、積水のポリゴミ箱の「フタ」のような(と、聞くと古い方なら、きっとうなずくでしょう!)差し替え式のディスクでした。



* したがってあまり大規模なシステムを組むことはできず、どちらかというと、現場もしくは空調のない簡単なコンピュータルームで、ダイレクトにデータを入力して「即伝票」を発行し、請求書や元帳を作成する、そしてあらかじめ決められた切り口で「地区別」だの「担当者別」だのといった総計をとる、というスタイルでした。



* 処理能力がきわめて限られていただけに、ソフトと現場での業務の流れとがうまくフィットできないと、その後の転用も利かず「導入したものの全く動かずに埃をかぶった」状態になることが多々ありました。中小企業にとっては、時代に乗り遅れないために親族会議を開いて「一大決心」をもって導入に臨んだものです。



* 同時に、OSの知識が必要なく、システムもシンプルでしたので、普段の会社の仕事をやりながらソフトを組んだという「現場の素人プログラマ」が、各地で活躍した時代でもあります。

(実は私もそこから出発していつしかこの業界にハマってしまった者です)



* この時代の最後を飾る画期的な技術は、「漢字の使用」です。

  1977年、JBC(現在のJBCC)が日本で初めての「漢字の使えるコンピュータ」を発表します。

  そして1979年NECのS100。。



* 時代は「前史後編」に移っていきます。



* 後編の時代の共通の特徴は、

 (1)OSが次第に重要な役割を果たすようになってきた。

 (2)高級言語(主にCOBOL)さらに第4世代言語(各社独自のジェネレータ、「マスタ保守」「レポート作表」などに使われた)が中心になった。

 (3)オフコン各社が差別化を図るべく、「ペンタッチ」「タッチパネル」「ボタン式ブック」などの入力装置、 元帳が単票単位でプリントできる「OAプリンタ」、等々中小企業にアピールする各種装置を開発、搭載して競い合った。

 と、いった点です。

 

* 処理能力の向上、ハードウエアの信頼性の向上、多くのメーカの参入などによって「オフコン」は全盛期を迎えました。 「時代に乗り遅れるな!」 一般企業はオフコンの導入熱にうかされました。新聞にオフコンの広告が載らない日がないほどでした。オフコン導入成功企業はいわば「先進の企業」として尊敬と羨望の対象となりました。(これって、現在のEビジネスに似てません?)



* オフコンの普及にともなって本社に1台の時代は終わり、支店、営業所にもオフコンと複数の端末機を導入しそれらをオンラインで結んだり、取引先との間のバッチオンライン受発注など、システムがかなり高度化してきました。

 この時代は、コンピュータ間の接続性、データの互換性は同一メーカどうしでないと基本的にやりにくく、本社または、親会社があるメーカを採用すると、支店、関連会社も同じメーカを採用する、といったことが次第に多くなってきました。



* また、各オフコンメーカにとって、「OS」の開発費用がかなりの負担となってきました。 



* このような事情を背景に、IBM、富士通、NEC、といった大型汎用機メーカが次第にオフコン分野でも優位に立つようになってきました。

 「前史後編」の時代の終わり頃にはぼつぼつ「オフコン」分野から腰が引けてきたメーカも出始めました。



リコーは1986年、MXシリーズと銘打って、独自OSから離脱し、UNIXを搭載したオフコンを発表します。(もっともこのマシンはあまり安定動作せず、従来からのリコム?Iシリーズも併売されていましたが。。不安定オープン系コンピュータの先駆的実験か?)



* オリベッティなどもこの時期までには東芝のOEMを受ける形となっていました。(これが正確にいつ頃だったか覚えていませんが。。)



* そして1987年、NECが代表的オフコン「S3100シリーズ」を高らかに発表し、 1988年JBCCがIBM AS400を販売開始することにより、「メーカ」から脱落して「代理店」となって、「前史後編の時代」は幕を閉じます。



* これ以後は、IBM、富士通、NECの「新御三家」の時代に入ります。

 「新御三家」の時代は、「オフコン寡占化」の時代であり、「オフコン成熟」の時代であり、そして「オフコン黄昏の始まり」でもありました。 そしてそれは「隠れオフコンの時代」への前奏曲でありました。



(次回へ続く。。)



(注)JBCCについては続編の注釈をご覧ください。



7:(続き)「隠れオフコンの時代」(3) の(注)
EXCHANGE 09/26 20:39
* JBCCに関する注釈 **

 

前回の文章が規定の長さをオーバーして書き込みができませんでしたので、(続き)を書かせて頂きます。



(注)JBCCの名誉のために付け加えますと、当時すでに優秀な「パッケージソフト」を多数持っており、システム構築に強みを持っていたJBCCが「メーカ」を離脱したのは決して敗北ではなく、積極的な意義があったと筆者は思います。その後のオフコン各社の流れを見てもそのことは明らかです。早くからシステムインテグレーションの方向に進んだJBCCの方針は高く評価されるべきです。



8:「隠れオフコンの時代」(4) オフコンの「成熟」と「黄昏の予感」
EXCHANGE 09/27 02:52
* 時代は「新御三家の時代」に入りました。

  この時代は、「オフコン寡占化の時代」でもあり、「オフコン成熟の時代」でもありました。



* 1987年、われらがオフコン「S3100シリーズ」が発表され、また1988年にはAS/400が華々しく登場します。富士通のK600シリーズも同じく1988年です。



* この時代のオフコンについては、どのような特徴があるのでしょうか?

 後々のWindows時代の「クライアント/サーバ方式」を推進する人々が自分たちの優位性を主張するために、「オフコン」にたいして多くの誤った印象や評価をしてきましたので、



 == ここで、「オフコン」の名誉のためにも ==



ひとこと、述べておきたいことがあります。



* 彼ら(クライアント/サーバ推進者たち)は、次のように主張しました。



 (1)「オフコン」にはデータベースというものがない。

 (2)「オフコン」には日次更新処理という不便なものがあり、一度更新処理をおこなってしまうと赤黒修正以外、データの変更ができない。

 (3)「オフコン」には表計算のソフトがない。また蓄積されたデータをユーザが取り出して活用できない。

 (4)「オフコン」は本体でソフトを動かす方式でホスト側に負荷がかかり、クライアントサーバ方式に比べて時代遅れの方式である。

 (5)「オフコン」は高価でしかもメーカによる互換性がない。一度購入すると以後ずっとそのメーカに縛られてしまう。



* これらの主張がいかに間違ったものであるかは現時点では明らかです。



* というより、当時、「データベース」「エンドユーザコンピューティング」といった重要な技術革新は、かなり大規模なシステムにおいても実際に使えるレベルで、当時の「オフコン」がすでに実現していたものでした。

 B−treeveなどという、ISAMに毛の生えたような「データベース?」や、データベースの行レベルロックもままならないオープン系DBと違って、「オフコン」のそれは安定性と実用性を兼ね備えていました。



* また、「オフコン」のデータベースにはエンドユーザが実際に簡単に利用できる「フロントエンドツール」(NECで言えばRDBQ、RDBQ2、三菱でいえばEDUET)も充実していました。



* パソコンがDOS全盛の頃、「オフコン」メーカは内部仕様がオフコンで利用形態がパソコン的な「独自PC」を作り上げていました。NECで言えば、N5200−05、富士通で言えばFM??(忘れました)、IBMはOS/2がその代わりだったのでしょう。

 それらの「独自PC」は、「LAN−PLAN」「EPOCALC」といった表計算ソフト、「LAN−WORD」「EPOWORD」といったワープロソフト、さらに高度な地図表示や、予測計算ソフトまでも利用できました。

 そしてたいていの場合、N88BASICのような単純なBAICと違って、ISAMが使える「事務用BASIC」を備えており、小規模な事務処理ソフトが開発できるものでした。

COBOLも用意されていました。

 IBMにいたっては、端末PC上で、5250エミュレーション画面とPCソフトの画面を、それぞれ実行中に「ホットキー」の押下で切り替えたり、PC上のOS/2クライアントソフトからAS/400のデータベースに直接アクセスしたりする機能も備わっていました。



(ちょっと長くなりそうなので、次の書き込みに「続き」ます!!)



5:Re:新御三家の裏側
江須扇 09/27 03:57
EXCHANGEさん、いろいろと過去の話を書いていただき、いつも、なるほどと見ております。

今後も続けて書いてください。



私は、NECが旧御三家に入っていたかどうかは別として、別の観点から、新御三家へ変わったかを書きます。



東芝のオフコンは旧JBCの製造会社(日響電機工業(親会社?))がOEMで作っていました。

JBCは東芝のディーラと自社ブランドを併売していましたが、自社ブランドを優先してOEMを止めてしまいました。

東芝のトップディーラだったので東芝もあわてたようです。



三菱は、丸善、オービック、三菱事務機械(三菱商事系)が販売していましたが、売れすぎて、開発言語がアッセンブラのままでCOBOL化が遅れた事と、富士通が努力したのでFACOMの併売ディーラーからFACOMディーラーになってしまった感がありました。

さらに、内田洋行のOEMメーカーだった宇ノ気電子(USAC)が経営危機になり、富士通の資本が入り、富士通のオフコンを作るようになり内田洋行も富士通ディーラになってしまた感がありました。



NECは日本事務器が独占販売していましたが、富士通の動きに危機感をもったのか、大塚商会を内田洋行のデーラーから鞍替えさせて自分の陣営に引き入れました。

大塚商会の当時のオーナ社長はリコー出身でコピー、FAXはリコー製を販売して首都圏でトップディーラでしたが、オフコンはイマイチ売れてなかったようです。COF(コフ(Copy Offcom Fax))で始まるオフィスオートメーションがキャッチコピーだったように思います。どんな経緯でNECオフコンを売る事になったかわかりませんが、瞬く間にNJCと二分するNECのトップディーラというかオフコントップディーラになってしまいました。その間にリコーもOEMですがNECオフコンを販売するようになりました。



纏めると



丸善    三菱     −>富士通

オービック 三菱     −>富士通

MOM   三菱     −>富士通

内田洋行  USAC   −>富士通

JBCC  東芝−>自社 −>IBM

リコー   自社−>NEC−>IBM

大塚商会  USAC   −>NEC



鞍替えしたから新御三家になったのか、新御三家の商品で勝ち馬に乗るため鞍替えしたのかわかりませんが、主力ディーラ変遷が新御三家を作ったとも言えます。



9:(続き)「隠れオフコンの時代」(4) のつづき
EXCHANGE 09/27 04:15
** 「隠れオフコンの時代」(4)の後半部分です **



* さて、「日次処理」云々についてはシステム設計の問題であり、多分、中規模以上のシステム構築の経験のない当時のパソコンLANソフト開発者には、後日のデータ修正によって発生する諸々の整合性の問題とかが理解されていなかったのでしょう。

 例えば、パソコンソフトによくある、さかのぼって何回も前の請求明細書を修正再発行ができる機能とかも、大規模になれば締め切りや運用上かえって問題を発生させます。日次データにおいてもまたしかりです。



* 「オフコンと違ってわれわれは日次処理をせずデータに日次フラッグを立てる」などとおっしゃっておられる方も本などでお見受けしましたが、これって日次処理そのものじゃあ。。



* もっとも、「日次処理をしない」というのが、「マスタ集計を毎日せずに締次に一気に集計作表などする」 という意味でしたら、これまたシステム設計の問題でして、「オフコン」においてもよくあるパターンです。



* 指摘(4)の、「本体ですべてのソフトを云々」は、キョービ「サーバサイド」がはやりの時代で、Windowsですらターミナルサーバだのメタフレームなどとホスト(じゃなくてサーバでしたっけ)に重い負荷をかけておられるのでは。。

 クライアント/サーバ方式こそ現時点では「時代遅れ」になっているようですので。。でもその当時は分からなかったのでしょうね。



* 最後に、オフコンは「他社と互換性がなくて一度購入すると同じメーカをずっと使い続けなくてはならない」という主張は、現実のユーザの立場から見れば大して意味のないことです。

 というのは、自社開発でない限り、ユーザは「システム屋」と取引するのであり、「マイクロソフト」と取引するわけではないのです。

 「オフコン」だって「システム屋」が気にくわなければ「他のシステム屋」にリプレースするのであり、PC系だって同じこと。

 そのとき前のシステム屋のソースプログラムを次のシステム屋がそのまま引き継げるでしょうか? たいていは「ソース」を見せてくれない、次のシステム屋が違うツールで開発している、などで「仕様書」だけ参考にして作り直しってケースがほとんどでは。。

 それにリプレースするということは前のシステムがそもそも気に入らない場合が多いわけだから、そのまま引き継いでもしかたなかったりするのです。



 要するにこれらは「オフコン」固有の問題ではないと言うことです。



* オープン系に関して間違いなしにいえることは、乗せ換えの際「データの取り出しがしやすい」つまり「普段、データが容易に盗める」ということぐらいでしょうか。。

 (これは少し問題発言ですね。 現状では「オフコン」だってすっかり便利、というか危なくなってしまいまして、各種連携ツールにて簡単にデータがパソコン上に取り出せてしまいます。

 「オフコン」において「初期メユー」+「セキュリティ」にて厳重にオペレータの操作を制限する仕掛けになっているのに、「SKYLINK」などで同じユーザ名を使ってすべてのデータベース項目に簡単にアクセスできてしまうというアンバランスは一体何なんでしょう?? え?項目別のセキュリティをかけると良い、ですって?! そんなことしたら基幹アプリケーションが困るでしょう? 

 基幹のパスワード教えるなですって?! 

 SKYLINK使う人と、基幹APを使う人を別々に雇うこと御社では出来ます???)





* さて、この時代は「オフコン」成熟の時代であるとともに、ぼつぼつPC?LANによるシステム構築が盛んになりつつあり、「主役」はいわゆる「ネオダマ」(ネットワーク、オープン、ダウンサイジング、マルチメディア)に移っていきます。



* 1993年、NECシステム7200が発売されますが、このマシンはNECにとって「最後の純粋オフコン」であり、同時に「パソコンLANとの接続性」(連携という意味ではあまり強力だったとはいえません)を重視した製品でした。



 決して長い期間販売されたマシンではありませんが、その4期モデル(最終モデル)においては、NECが培ってきたITOS−>AVXの一つの頂点が(いつものNECの性格のとおり、強い自己主張をすることもなく)マシンの中に「静かに」息づいていました。



* そして、1995年。。

  Windows95の発売。

  新しい時代の幕は切って降ろされました。

  「Windows」「Windows」「Windows」。。

  そして「隠れオフコンの時代」が始まります。



(続く)



10:「隠れオフコンの時代」(5) 隠れオフコン傾向と対策
EXCHANGE 09/27 09:34
* 1995年を境にして、オフコンは冬の時代を迎えます。



* 実は冬の時代はすでにその2〜3年前から始まりかけていました。

 バブルの崩壊後の不況は、それまでの「ソフトは高くついて当たり前」「ハードよりソフトが高額」「ソフトで高く取ったのを自慢する」などといったオフコン業界に蔓延していた「ソフト至上主義」を一夜にして砕いてしまいました。



 それにWindows95、NetwareといったPC系のプロダクトの登場がとどめを刺しました。



 「そんな安い予算ではいいソフトは出来ないぞ!相場はもっと高い!」などといって顧客たちに迫っていたメーカ+代理店に対して顧客たちが逆に反乱を始めました。



** 「パソコンで開発すればもっと安くて、わかりやすいものが出来る、それでやってくれ!!、オフコンよりそっちがいい!!」 **



* パソコンでの新しいシステムは最初DOSクライアントをベースにして、「B-Treeve+DBmagic」「LLL+パソコンCOBOL+iii」「ル・クローン」などで始まり、次第にwindows版に移行していきました。(windows版に転換するのが遅れてその後やや下火にになったツールもたくさんあります。DBマジックもそうですし、それのバッチ版ともいえるウィズダムは消えてゆきました。)



 OSもNetwareから次第にNTサーバに換わっていきました。これらの新システムは安定性やPCの管理費用も含めたトータルコストはともかく発注時点でのハード+ソフトの費用を劇的に低下させるように見えました。



* そして何より重要なことは、これらPC系のシステムには「オープン系」「オープンシステム」という「開かれたすばらしい価値あるもの」を意味する名前が付けられ、一方オフコンには「閉鎖的で接続性が悪い」という暗いイメージの「クローズド」という呼び名がつけられました。



* かつて汎用機オフコン陣営は「ホストコンピュータ」「オンラインリアルタイム」「SIS(戦略情報システム)」といったプラス価値をイメージする言葉を数多く持っていました。



* しかし、「オープンシステム」というPC側の言葉を前にしてオフコン側は新たなプラス価値をもつ言葉を見いだすことが出来ませんでした。

 わずかにオフコン陣営が見つけたのは「過去資産の継承」というどちらかといえば後ろ向きな言葉にすぎません。



** そうです、「失語症」にかかってしまったオフコンは自らの価値を主張することができず、「ビジネスサーバ」「オフィスサーバ」などといった一見オープン系サーバと紛らわしい呼び名でこっそりと販売される「隠れオフコン」に身を落としてしまったのです **



* 今や、「オフコン」という呼び名そのものが「時代遅れ」といったイメージを持ってしまいました。

 このような事態に対し各メーカはどのような対策を講じていったのでしょうか?



 それは大きく分けて3つに分類できます。



 (1)「オフコン」から撤退してオープンシステム上でかつてのオフコン時代と同様の開発実行環境を提供する。



 (2)ハードのみパソコンサーバの部品を使用してコストダウンを計りつつ、あくまでも中身のOSは「独自」を貫く。または複数プロセッサを使用してNTサーバなども1台のマシンで稼働させ連携を取る。



 (3)NTサーバOS上に「独自OS」を組み込む。



 といった方法です。



* それでは、次回コラムから、各メーカ別の「オープンシステム対抗の傾向と対策」を順に探ってみましょう!!



(続く)







6:Re:新御三家の裏側
tahrayan 09/27 16:05
皆さん、いろいろ情報を書きこんでくれてありがとうございます。

私も書こうと思っていたのですが、記憶だけでは、皆さんに負けてしまうので、暇を見て資料を集めています。



資料の中にいくつか情報がありました。

内田洋行とユーザック(PFU)は、自分のところのオフコンを持って、最初にNECに提携を申し込んだようです。ところが、NECはちょうどS100を開発中だったので、いらないと言ったみたいです。

次に行ったのが、オフコン分野で出遅れていた富士通。オフコンの上位のモデルは汎用機が得意な富士通が開発、下位のモデルはユーザックが開発。(つまり昔のCSP/F5系列とCSP/F3系列)

富士通は、上位モデルも下位モデルも自分のブランド名で売ります、でも内田洋行/ユーザックは下位モデルは自ブランド名、上位は富士通のオフコンとして売りますという契約になったようです。

今でも、PFUは、富士通のオフコンのタワーモデルを自ブランド名で売っていますが、拡張性の高いラックモデルはラインナップにありません。



1-

BluesBB ©Sting_Band